水の味が変わる❗

コップを2つ、ペットボトル一本、紙と鉛筆を用意して始めます。紙に次のような図を描きます。(セーマンと言います)





コップにペットボトルから水を注ぎます。
片一方のコップの下にこのセーマンを敷きます。

そしてあなたが、セーマンのコップに対して水の味が変わるように『念』を送ってください。

そして念が通じたと思ったら水を飲み較べて下さい。

味が変わっていれば幸いです。

これが出来ると、お酒の味や食べ物の味を変える事が出来ます。但し、固形物の味を変えるのは難しいです。

初歩的な念の訓練です。興味があれば是非実行してみてください。

出来る人はすぐ変わります。なかなか出来ない人でも工夫してコツを掴めばできます
から辛抱強く続けてみてください。

幻の名作『デビルマン』

永井豪の作品のなかで最高傑作は「デビルマン」であることに異論はないであろう。

この作品は『魔王ダンテ』の延長線上にあるだけでなく、人間の真の存在を露にした作品である。永井は作品の制作課程で意識レベルが格段に向上している。そして非常に哲学的な仕上がりとなっている。作者自信も執筆中に色々な神秘体験を経験している。

飛鳥了は悪魔と合体するには、人間の理性をなくさなければならないと言っている。

この事は、自分という小さな自我をかなぐり捨てないと、真の自己を獲得する事ができないと語っているのである。

それでは、悪魔とは何か?神とは何か?

不動明飛鳥了そして牧村美樹の役割とは何なのか?

神とは日常の意識である。眠りの状態である。そして悪魔とは、覚醒意識であり、真理である。

牧村美樹は日常に止まらせる力で変化を望まない作用を表す。

飛鳥了は一人の覚醒者で道を示す者である。

不動明は道を求める求道者である。

不動明が手にした力とは何か?

それは『客観意識』の発現である。この状態を得たものだけが真の自分を手に入れる事ができるのである。

キリストや仏陀がそれである。彼らは輪廻転生の呪縛から解放され、真の自由を得た存在と言える。

そしてこの物語は、最後にハルマゲドンを迎えるが、これを次元上昇ととらえるか下降ととらえるかは、あなた次第です。



恥を知る‼日本人の心情




感動を呼ぶ、ひとつの話(日本の昔話)

昔、一人の浪人がいた。妻をなくし子供が一人あった。
町人の子供たちと遊んでいた浪人の子供が、皆と同じに「私も赤いご飯食べたよ」と語った言葉を聞いた。

その子らが家に帰って「浪人の子供も赤飯食べたんだって」と家のものに語った一言が.....

その頃近所で小豆が盗まれることがあったので、話を聞いた人々が、あの浪人が小豆を盗んだに違いないと思い込んで、皆で浪人の家に行き、寄ってたかって責め立てた。
もはや浪人に、弁解は許されざる状況であった。

その浪人は、その時我が子を見据えてこう語った。

「武士は辱しめを受ければ死す...」

「覚悟いたせ、その方の腹の内を見せてやらねばならぬ!父も、すぐ後を追う故に許せよ....」と

幼児は、かねてより「武士の意気地」について聞かされていたので、幼くても既に覚悟はできていた。

父は我が子の背後に回り、短刀を持ってその腹をかっさばいた!そしてその腸や胃の中にあるものを出して見せた。それは、消化されていない「川海老」であった。

これを見た町人たちは、ア!!と驚くが、既に遅し。

まさか!武士は辱しめを受ければ切腹するとは聞いていたが、まさか自分の子供までも切腹させるとは思わなかった。

浪人の弁解を聞かず、小豆泥棒に仕立てあげた、取り返しのつかないことをした愚かさを悟ったが、遅かった。

「おのおの方、これでよろしいか.....」

我が子よ許せ、と止めの一刀を心の臓に与えて、その返す刃で己が
腹に突き立て、また腹を開いて中の物を出したが、そこにはなにもでなかった。

空腹に耐えながら、武士は我が子にだけは、祝いの赤飯を作って与えていたのである。

「渇しても盗泉の水は飲ます....」とは、武士の心情であった。


町人たちは、この武士の行動に驚くと共に、自らの愚かしさと過ちに恥じたと言う話である。

この話は日本の江戸時代の話です。

武道の極意その壱

『集中力』と『注意力』この二つのちからは、同じ様で全く違うものです。集中力は本能的な力で、昆虫や動物など総ての生物に自然に備わっているものです。しかし、注意力は人間に備わった相対的に働く力で意識の持続を必要とします。
格闘技やスポーツは、本能や運動機能の強弱で勝負をきめますが、武道に於いては、この注意力と気の力が優劣を決定します。

集中力と注意力はどれぐらい違うのかと言うと、スピード競技で水の中を泳ぐのと陸上を走るのと、ぐらい差があります!
又は、二次元の平面の世界と三次元の立体の世界との違い位あります。
これでは勝負になりません!

しかし、この技を習得するためには大変な修行が必要となるのです。
古来よりこの技を修めたものに達人とか免許皆伝が与えられるのです。
この過程で一番大切なことは、意識の変革と用いる筋肉と呼吸を変える事です。その為にあえて肉体を極限にさらしたりするのです。

現代武道では合気道が最もポピュラーですけど、形の反復が修行の大部分をしめ、その動作をひたすら繰り返すだけです。この修行は、剣術でも同じです。(古武術では皆同じ)

武術は、神道の中から生まれてきました。技、肉体の強化、精神力、気などを最大限に高めることは必要ですが、一番の要素は霊的な能力の開発にあります。武田惣角しかり上芝盛平、上泉信綱宮本武蔵などなどがその実例です。
霊的センサーを開発するには、神霊に親しむことが必要となります。

鎮魂帰神や御祓がその可能性のひとつとなります!

私達の道場にも武道家がよくやって来ます。突き詰めれば総てのことは、心の開発にあるということですね!



御祓について

日本古来の神道の行法である『禊』について語ります。(入門編)

古事記のなかで伊邪那伎乃命が黄泉の国より戻り、穢れを祓うために禊をしたのが初めてで、以来我が国では、老若男女、身分を問わず現在まで続いています。

神道行法として、神官が実践し、山岳修験者の行法として、広く行われてきました。

そして禊を近代以降体系化し、埋もれていた行法を復活した人物が、『川面凡児大人』です。





川面の協力者でもあった明治神道界の重
鎮『今泉定助』翁が尽力の末、神社庁の正式行法として取り入れられました。

禊の要諦は、振魂と祓いにあります。

潜水前の祝詞奏上を如何に行うかがポイントです。

気が練れてくれば自然と肛門がしまって丹田に気が充満してきます。

そこで、雄叫びとともに潜水又は、水を被り、『祓戸大神』と言霊を唱えるこのとき上手くはまれば、身体の筋肉が緊張することなく禊ができます。

この状態の意識のなかで神霊に遭遇することもあります。この時色々な体験をしても決して口外してはなりません。

このときの体験や啓示や目にしたものは、所謂『秘め事』だからです!

禊は心身を甦らせ活性化しますが、その本質は神霊との遭遇することにつきます。




禊を続けることで、日常的に生ずる穢れを祓い、肉体と精神の再生をもたらすのです。

興味のあるかたは、是非こちらを参考にしてみてください。

稜威会ホームページ

http://www.miizukai.org

怨みと呪い

『人を呪わば穴二つ』とは言ったもので、
呪いは、必ず返ってきます。

これを『返しの風』が吹く、と言います。

恐ろしきは、人間の持つ嫉妬心である。

『あいつのせいだとか』、『あいつが死ねばいいとか』、『末代まで祟るとか』、
『一族を根絶やしにしてやるだとか』人間の持っている創造力と欲望が嫉妬心と合わさったとき、強力な怨みの想念が発動します。

もうひとつのケースとして、自分に非がないのに疑いをかけられその地位を奪われたり、傷付けられたり、辱しめられたり、大切なものを失ったりしたときの怨みの想念は、その本人に一点のやましい心がないので後悔したり妥協する気がないため、相手を徹底的に破壊し滅ぼすまで続きます。

しかし、やはり怨みはそれが成就したときに『返しの風』が吹くため結果的には痛み分けとなるのです。

本当に相手を殺したければ、命をかければ呪詛は多分叶うでしょう。しかし、自分も死んでしまえばそれで終まいです。

そこで、古来より呪術を生業にしている者たちが存在しているのです。
その者達は、歴史の裏で暗躍し歴史の表には出てこないが、ルーズベルト大統領も呪詛で亡くなっています。
浅田真央ちゃんもキム・ヨナの呪詛で二回も金メダルを逃しています。
藤原の四兄弟の相次ぐ死亡など、数え上げたらきりがありません。

政治家や、ブラジルのプロサッカー選手は、呪術師を雇っていますし、今でも呪いは、大切な権力闘争の力の道具の一つなのです。

彼ら呪術師は、普段は人間社会に溶け込んで何ら普通の人たちと変わらない生活をしています。平凡な主婦やサラリーマンの仮面をかぶって!

よくテレビとか雑誌で耳にする霊能者とは違います。
実際にあんなに目立ってしまったら彼らはすでにこの世に存在していないでしょう。
何故なら、正体を曝せばたの術師から術をかけられたりして、お互いがお互いを呪いあって皆死んでしまいますから。

私は、知り合いの呪術師に聞いたことがあります。

あなた方は、呪詛を生業にしていても何故返しの風が吹かないのか?

笑ってこう答えました。
『自分は大丈夫!これを代々家業としているから!返しの風が吹かない工夫はすでにできているから』と

あなどれないですね!流石ですね本物は!

眷属神について

人はよく勘違いをしますが、神様についても大きな間違いを犯してしています。

 

神は人間など救ってはくれません!神は人間の事情などは全く考慮しません。

 

ましてやそういう存在ではありません。

 

神とは、この宇宙にあまねく蔓延している存在として、絶対悪とか絶対善などという常識の物差しでは捉えられないものなのです。

 

それでは、人は神に願いをかけても、はたして神は何もしてくださらないのでしょうか?

 

全くその通りです。

 

一個人の願いなど一切聞き入れてはくださりません。

 

神とは言うなればこの宇宙であり、真理そのものであるからです。

 

神に対して人間ができうる事はひとつのみ、感謝し祈る事だけです。

 

真の祈りとは、唯、畏敬の存在や、真理に対して向かい合い全身全霊を捧げるだけの事だからです!

 

それでは何が人間の願いを叶えてくれるのでしょうか?

 

それが、眷属神や神霊という不可思議な力なのです。

 

神社に詣でると、必ず稲荷様や龍神様がお祀りしてありますが、これらが眷属神という神霊であり、この眷属神が神と人間の取り次ぎをして下さいます。

 

眷属には、狐、龍、烏、蛇、鳩、天狗などがあり、大自然のエネルギーの一形態が、

具象化した存在なのです!

 

この神秘の力が、我々の願いや願望を聞き入れてくれます。

 

眷属信仰があるのは、遥か昔の先人がこの力の存在を発見し、それを用いる術を産み出したからです。

 

但し、この力の利用には注意が必要となります。

 

それは、眷属神霊と人間が契約を結べて初めて成立するため、眷属が願いの内容と引き換える対価が折り合いがつかなければ発動しません。

 

また契約が成立しても、人間が対価を支払わない場合は、取り返しのつかない事態が起こります。

 

眷属が、どのような対価を求めてくるかは、何らかの形で本人に伝えてきますので其がわかれば、ほぼ願いは叶うでしょう。

 

くれぐれも注意してください!

 

契約は守ること。

 

守れなければ、決して契約を結ばないことを!